ロギア系は手ごわい

藤川千愛
ロギア系は手ごわい
2023年4月12日に“藤川千愛”がミニアルバム『嬉しい声をほんのちょっと』をリリースしました。今作には、4月スタートのTVアニメ『マイホームヒーロー』オープニングテーマの「愛の歌」の他、全7曲が収録。初回限定盤には1月7日に行われたワンマンライブの映像が収録されたBlu-rayが付属され、12曲のライブ映像を堪能することができます。 さて、今日のうたコラムでは、そんな最新作を放った“藤川千愛”による歌詞エッセイを3週連続でお届け。今回は第2弾。綴っていただいたのは、今作の収録曲「 君の匂いは鎮静剤 」にまつわるお話です。彼女がとある匂いを嗅ぐと思い出してしまう忌々しい記憶とは…。みなさんにとってトクベツな匂いってありますか? ぜひ歌詞と併せて、エッセイをお楽しみください。 『チッ』… 思わず舌打ちが出てしまった。音にならず誰も気が付かなかったのがせめてもの救いだ。あたしは誰かのささやかな幸せを邪魔する嫌な奴に成り下がらなかったことに少しだけ安堵した。 新幹線が駅を出ると間もなく、通路を挟んだ隣の乗客が燻製卵を食べ出したのだ。もちろん、駅弁やおつまみは旅の醍醐味である。それを否定するつもりは微塵もない。かく言うあたしだって誘惑に負けて、良心の咎めなど蹴飛ばし、ある時は551のぶたまん、ある時はくくるのたこ焼きで、東海道新幹線内半径5メートルの匂いテロリストになった過去があることは否定しない。 実を言うと、私には苦手な匂いがあるのだ。 その匂いを嗅ぐと条件反射的に身構えたり、突如として落胆したり、あるいは今回のようにちょっとした悪態をついてしまうのだ。理由もはっきりしていて、その匂いを嗅ぐと思い出したくもない忌々しい記憶が蘇るからだ。 これをプルースト現象というらしい。特定の匂いを嗅ぐと、その当時の記憶やエピソード、感情が鮮明に思い出される現象のことをそう呼ぶそうだ。フランスの文豪、マルセル・プルーストが書いた『失われた時を求めて』という作品で、主人公が紅茶にマドレーヌを浸したときの匂いで、幼いころの母との記憶が蘇ったことからそう呼ばれているらしい。 私のまわりだと、音楽を聴いてその当時の記憶が蘇る経験をしている人はそこそこいるのだが、それが匂いになると珍しがられたりもする。 制服が可愛いという理由で選んだ高校は、自宅からは結構な距離があり、私は3年間、自転車を必死に漕いで通学した。必死だなんて大げさに書いたのには理由がある。とある区間で、私は息を止めて、それこそ人目もはばからずに、全身全霊の立ち漕ぎで走り抜けなくてはならなかったのです。この区間限定だったらボルトとだって良い勝負ができた気がする。そのくらい急がなくてはいけない理由があったのです。今更だけど、あたしの高校時代の成績が芳しくなかったのは、きっと朝からここでエネルギーを使いすぎていたのが原因だったんじゃないだろうか。そうに違いない。 漫画や映画では、凶暴な犬を飼っているお宅の前を通るときに、犬に見つからないようにこっそり、あるいは急いで通り抜けるが、結局は犬に吠えられたり、噛まれたりってシーンがあるけど、あたしは毎朝がこんな具合で戦いだったのです。しかも、あたしの敵は凶暴な犬ではなく…、匂い。さながらワンピースで言うならば、動物系(ゾオン)ではなく自然系(ロギア)だったから、それはそれは厄介なのです。 都会では考えられないけれど、当時の田舎は、家の敷地でゴミを燃やすことが黙認されており、なんならそれが当たり前ってくらい日常で、あたしの鬼門ともいうべきある区間のあるご家庭では、ビックダディもびっくり! あんたん家いったい何人家族なの?! って言いたくなるほど大量のごみを毎朝毎朝、ちょうど私の通学時間に燃やし続けたのです。 時空が歪んでいたのか春も夏も秋も冬も風向きはちっとも変わらず、モクモクとした煙が毎朝毎朝あたしを包み込んだのです。ZAGZAG(中国地方を中心に店舗を展開するドラッグストア)で買ったお気に入りのシャンプーの香りも、ZAGZAGで買ったやさしい柔軟剤の香りも、この区間を通り過ぎた後には、燻されたスモーキーな香りにとって代わられました。 たかが匂いかもしれないが、年頃の女子高生にとっては大問題で、七夕の短冊に『あの家の目覚まし時計がすべて壊れますように』と書きそうになったくらいです。 今でもあのお宅は大量のごみを燃やしているのだろうか…。あたしのような燻された女子高生がもう増えていないことを祈ります。 そんな理由で、燻された匂いを嗅ぐと、今でも3年間の忌々しい記憶が鮮明に蘇ってくる。どうか賢明なるファンの皆様、あたしを見かけたら、近くで燻たまや燻製チーズ、いぶりがっこを食べるのは控えてください。 もちろん、悪い記憶だけでなく、犬の肉球の匂いや、ミモザの花の香りなどで、ポジティブな記憶が呼び覚まされることも頻繁にあります(この話はまたいつかどこかで)。そんなこともあり、香りに敏感?なあたしは、いつか香りにまつわる楽曲を作ろうと思っていました。 そうして生まれたのが「君の匂いは鎮静剤」という楽曲です。現在進行形の恋をしているあなたに聴いてもらいたい曲です。 <藤川千愛> ◆紹介曲「 君の匂いは鎮静剤 」 作詞:藤川千愛 作曲:近藤世真(Elements Garden) ◆ミニアルバム『嬉しい声をほんのちょっと』 2023年4月12日発売 <収録曲> 1. 愛の歌 2. 君の匂いは鎮静剤 3. リゲル 4. ちゃんとした人不適合者 5. 面倒な女 6. スローモーション 7. なにも忘れるわけじゃない