第93回 King Gnu「白日」
photo_01です。 2019年2月22日発売
 King Gnuの「白日」のミュージック・ビデオは、バンドの有り様に着眼し、そこからハミださずフォーカスしたものだったので印象深かった(ディレクションはOSRIN)。特にいいなと思ったのは、天井の高い洋館のホールのような場所で、レコーディングしているかのようなマイクや機材の装いでもって、メンバーそれぞれが比較的離れた場所で各楽器を鳴らしていることだった。

この場合の距離は、メンバー個々の音楽的リレーションシップの強さが正比例した結果にも感じられ、これぞバンド演奏の至福と受け取ったわけである。そんなわけで、今月は「白日」を…。

春の“季語”としての曲タイトル「白日」

 作詞・作曲は常田大希である。これほど表現力がありパワーもあるバンドだが、歌詞の世界観もすこぶる優れている。コトバとサウンド、イミとノリ、これらがあやふやに二極分化するのではなく、有機的に響きあい、我々を包み込んでいくのだ。

タイトルは、なぜ「白日」なのか? それは、[降りしきる雪]の季節を描くこの歌にあって、春の季語として機能するからだ。「白日」が春の季語、なんて書くと、おそらく「プレバト!!」の夏井先生からはお叱りを受けるかもしれないが、つまりは雪がすべて溶けて消えたなら、様々なことが白日の下に晒される、ということだろう。

そうだとしたら、このタイトルは実に素晴らしく、その余韻をおかずにこっぺぱん三つくらい何もつけずに食べられそうなくらいだ。そして、さらに歌詞を見ていくと、キラリキラリと光るフレーズが満載なのである。

新鮮な時制表現としての[地続きの今]

 過去が追いかけてくる、みたいな書き方は、よく見かけるし、過去というモノが逃れようのないものとして「今」を支配する姿は、例えばラブ・ソングにおける“忘れ得ぬ君”の存在などで、世の中にあまた描かれてきた。

この歌にも、そのあたりに関連した表現が出てくる。でも、とても新鮮なフレーズである。それは[地続きの今]。これはすごい。過去が追いかけてくるのなら、なんとか逃げることもできる(もし億万長者なら、超法規的に国外に逃げることもできる)けど、し、しかしである。[地続きの今]はどうだろうか?

己の裸足が生乾きのセメントにのめり込み、それがどんどん凝固を早めていくような、他では味わえない切迫した心理状況が醸しだされる。実際に歌のなかで、そこまで重たく用いているわけではないのだが、この表現には、とても心を動かされるのである。

自問自答をさり気なく、しかし、真実味をもって

 さらにこの歌の魅力のひとつとして、[かな]→[よな]、[よな]→[だろう]という、自問自答する歌詞の展開も挙げられるだろう。

具体的には、[なってやしないかな]を[なれやしないよな]で受けたりする部分だが、ここでの主人公の心の揺らぎが、とてもリアルに聴き手に届く。ここは物語が進んでいくわけじゃなく、時間軸的には宙ぶらりんである。ところが生きていくには、こういう“時間帯”が大切なのだ。そうやって主人公は、単にもがき苦しむわけじゃなく、かといって達観するわけでもなく、なんとか未来をこじ開けようとする。

全体としては普遍的テーマの歌

 細かいことを書いたが、「白日」は小難しい歌ではなく、とても普遍的なテーマ、そう、閉ざされた冬から解放的な春へと想いを馳せる歌である。

それがヴィヴィッドな時代性をまとい、万人の心を打つ仕様として完成されて、これほど多くの人びとを魅了した(もちろん筆者を含め…)。

しかし、このKing Gnuというバンドは、実に方法論が多彩である。他の作品に触れれば、即座に気づくことだ。この1曲だけでは、彼らという多面体のほんの一面を覗き込んだに過ぎない。なのでバンドの全貌が“白日の下に晒される”のは、まだまだずっとずっと先のことだろう。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

King Gnuのことは詳しくないので、Wikipediaなど参考にさせていただいてたのだが、そんななか、常田大希さんのフェイヴァリット・ミュージシャンのなかに、セロニアス・モンクの名前をみつけた。となると、俄然、親近感が湧いてしまうのだ。そもそもこの、ミュージシャンの方のフェイヴァリット・アンケートほど、距離を縮めるのに役立つものはない。そっかー、このヒト、こういうのも好きなのかー。だからかー(この“だからかー”は、自分と同じ根っこの部分もあることを確認できた喜び)、と、いうワケなのだ。そしてそして個人的な近況を最後に一言。忙しい! 以上です。