この歌の“エレジー”が示すものとは
さて本題。歌詞である。まずは幅広い層が知っているであろう、この曲を。菅田将暉に提供した最初の楽曲「さよならエレジー」である。
ちなみに、両者の出会いは菅田が石崎の「花瓶の花」を好きだった、ということかららしい。実際に会ってみて、意気投合したのだそうだ。
まずはタイトルのことから。エレジーは、「哀歌」とか、人の死を悼む「挽歌」とか、そんなふうに訳される。つまり、けして軽くはない感情がそこにある。
なので、なかなか“さよなら”というわけにはいかない。でもこの作品のタイトルは、しれっと「さよならエレジー」と言っている。まず、このあたりからしてすでに特色があるので気になった。
歌詞全体を眺めてみる。エレジーの正体を探ってみた。どうやらそれは、あまり上手くいかなかった相手との間に生まれた、様々なエピソードを指すようなのだ。
あの時、一緒に出掛けた場所、その時、着ていた服…。それらも対象となる。主人公は、ごそっとそのあたりと“さよなら”しようというのだろう。タイトルは、つまりそういうことなのだと解釈するのが良さそうだ。
次に、この作品における“愛”という言葉の扱い方である。大きな特色が出ている。この百万力な言葉もこの歌の場合は消えかけのUSBランタンのようだ。
[愛が僕に噛みついて]なんていう、ほかであまり見かけない表現が出てくる。この場合、“噛みついて”には肯定的なニュアンスがある。つまり、愛がもたらす拘束力を、いったん主人公は信じようとしたわけだ。
もっと分かりやすい、[僕が愛を信じても]というのも出てくる。しかし現状、相手はいなくなってしまいそうだ。[それならいらない]。主人公はそう吐き出す。なにが要らない? 愛などいらない、のだ。
この歌の場合、一般的に愛の効能とされることが、ことごとく機能していない。主人公に同情しちゃう。そりゃエレジーも生まれるよな、うん。
こうなったら希望を探そう。現時点での希望はないものか? [光れ君の歌]というのは、そうなのかもしれない。ただ、この言葉の前に[うんざりするほど]とある。まだまだ主人公には、相手にエールを送る余裕はない。
でも、“エレジー”と“さよなら”するんだから、1ヶ月後の主人公は、今より少しは笑顔かもしれない。
ちなみに僕個人がこの歌詞で一番好きなのは冒頭部分である。[僕は今]→[名の雲]っていう、ながったらしい現状を踏まえた自己紹介。ここ印象的。
花瓶の水のなかに映し出される永遠
今回は豪華二本(曲)立てである。さて次は、これも一般に知られているであろう「花瓶の花」。この作品といえば、披露宴の席で乞われて歌う本人を映す演出のミュージック・ビデオも話題となった。
なので、もちろん場に相応しい内容。やっと運命の人と出会えた。永遠の愛を誓う…。ポップ・ミュージックの題材としては珍しくない。
逆に、ソングライターとしての腕前が試される(実際に「花瓶の花」が書かれた背景としては実話にもとづく部分もあると聞くが、そこには触れず、歌詞の印象のみで進めさせていただく)。
「さよならエレジー」でタイトルにこだわったので、こちらもそこからいくなら、[花瓶の花]とは“愛情”そのものを指す言葉だろう。もちろんそこには期限があり、水は、互いがすれ違わないよう、心を潤す存在だ。
個人的に気になったのは、相手が[花瓶にくれた花]というのは、花瓶ごとくれたものなのか、花だけくれたものなのか、ということ。
僕としては、花だけくれて、花瓶は主人公の部屋にあった、という設定が望ましい。彼には、常日頃、花の美しさをわかる人間であって欲しいのだ。ただ、これは個人的な希望。花瓶でくれたっぽい気もする。
こういうタイプの歌の場合、愛情の強さを示す誇張表現の巧みさも、ソングライターの腕の見せ所となる。
[君を探していた]期間として[何年も何十年も何百年も]とある。何百年となると、もはやひとつの肉体に宿る時間を越える。二人は魂と魂の出会いを果たしたんだというロマンが広がる。
“何年も~”は、後半で内容を変えて二度ほど登場してくる。“何人も何十人も”となり、ここでは[傷つけた]と懺悔の言葉に変わる。さらに、“何人も”どころか“何万人も”のなかで君は輝いていて、そんな君を[やっとみつけたんだ]で歌は終わっていく。
この歌の余韻を汚すような無粋な言葉は要らないだろう。お幸せに!