第96回 宇多田ヒカル「真夏の通り雨」
photo_01です。 2016年4月15日発売
 さて今月は、そろそろ各地で梅雨入りの時期ということもあり、宇多田ヒカルの「真夏の通り雨」を。この場合は“通り雨”なので、正確には梅雨明け以降のシチュエーション、ということになるのだが…。

そもそも日本語には、雨を表現する言葉がたくさんあって、歌のなかにも様々に登場する。雨は登場人物の心情を重ね合わせるものとして応用が効くので、頻繁に登場することにもなるのだ。


今回取り上げる「真夏の通り雨」はどうだろう。主人公のどんな気持ちを代弁しているのだろうか。普通に想像した場合、なにしろそれはザァーっときてパッとやむ“通り雨”なのだから、少しの間だけ“足止めされる気分”とか、すべてを洗い流す“場面転換”として用いていると想像する。しかしそこは、才能溢れる宇多田ヒカルである。実に新鮮な、新たな雨の名曲を生んだのだ

髪や肌は濡らさず、心の中にだけ降り続ける

 歌詞をみると、そこには[降り止まぬ 真夏の通り雨]とある。これはいったいどういうことなのか。まず、この歌における[通り雨]は、主人公の鮮烈な恋愛体験を指していると解釈するのが妥当だろう。

そう考えると、[降り止まぬ]とは、今もそれが、ずっと心の中で大きな位置を占めている、ということだ。さらにエンディングでは、[ずっと癒えない渇き]と歌われている。だからこそ、この雨は止むことがない。

未練。まぁ、そう言ってしまえばそうかもしれない。この歌が伝えようとするのは、その種の感情だ。でも、今も心に止まる想いに対して、[通り雨]という能動的な言葉を比喩に用いたことが、この歌を成功に導いたのだ。私たちに、新鮮な感覚を届けてくれ。

雨を擬人化?

 [通り雨]というのは、等圧線の変化に伴い、降る場所を変えていく。まるで生き物のようでもあり、もし願いが叶うならば、後を追いかけていきたい対象にも相応しい。いわばこの歌では、雨を擬人化しているとも言えるし、こういう歌はなかなか無い…、いや、この歌が初めてかも知れない。

擬人化といえば、ほかにもこの歌では、巧みに用いられている場面がある。それは[思い出たち]が自分を[乱暴に掴んで]のところである。そのすぐあとに[愛してます]という、本心からの呟きが出てくる。

ここは作者としても、かなりチャレンジングだったのではなかろうか。つまり、やや大げさに解釈するならば、こんな場面としても想像できる。つまり…。主人公が[思い出たち]に拉致され、自白を強要された。彼女には、今現在の生活がある。大人なんだろうし、思い出は思い出として手懐けて、平穏に暮らしていた。しかしある日、いままで従順だった家来たちが、謀反を働いたのである。[愛してます]。なのでこの一言は、強要されたもの。そう、そんな重みを伴う。

実景と心象風景の巧みなキャッチボール

 最後にこの歌の全体の構造を。冒頭の場面は、夢から覚める、というもので、これはよくあるシチュエーションだ。しかし、夢と現実の境界線が、その後もあやふやなまま進行していく。あやふや、というか、夢のなかの時間軸と現実の時間軸、この二本立てで進むのだ。仮に彼女が目覚めたのが早朝の5時だったとしよう。枕元の時計はまさに5時である。しかし夢の中の時間は現実より奔放に、遡ったり前に進んでいったりしていたはずだ。

このあと、この歌には両方の時間が登場する。たとえば[木々が芽吹く]。それは現実。一方で[さっきまであなたがいた未来]。これは夢のなかだけど、過去のことではないので、夢ではあるけど(未来のことなので)実現可能でもある。なお、これは毎回のことだが、あくまでこのコラムでは言葉に絞って書いているが、こうした世界観をポップなものとして伝えることが出来るのは、メロディやアレンジとの相乗効果あってこそだ。

普遍的な感情をフレッシュな言葉に換える

 最後に注目すべき更なるフレーズをいくつか紹介したい。まずは[たくさんの初めて]。この言葉にはアイドル黄金期に彼女たちが歌っていたような奥ゆかしい性愛に対するアプローチを感じる。意味深という言い方をすることも出来る。

そして[勝てぬ戦に息切らし]。これは相手がモテてライバル大勢ということだろうが、そこはかとないユーモアを感じる。そもそも宇多田ヒカルには、喜怒哀楽すべてお任せなところがあるが、こういうフレ―ズをさりげなく放り込んでくるところも実に素敵だ。

そして最後は極めつけ。[自由になる自由がある]。このあたりは深すぎて、もう、一言で語れないのだが、それは言葉を補足するなら、“それでも自由になる自由”だろう。この想いを果たすことは、そう簡単ではない。自由はあるけど、現実には限られたなかにある…。この歌は、哲学的な命題にも手を差し伸べているのだ。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

今回の「真夏の通り雨」などは典型だが、そもそも歌詞に様々な工夫がされている作品というのは、書いててとっても楽しい!ここんとこを書いておくれよ、ここも忘れないでよー、と、歌の方から訴えかけてくるからだ。よく、「行間を読ませるのが凄い歌詞」とか言うのだが、しばしばこれは、言い訳にもされる。本当に凄い歌詞は、行間にもちゃんと意匠が凝らされていて、それでいて、それはあくまで行間として、聴く者の感情移入のスペースとして機能する。おっと今月は近況というより、原稿の続きみたいな感じになっちゃいました。