第81回 米津玄師「Lemon」
photo_01です。 2018年3月14日発売
 昨年の紅白も新たな契機となり、再び注目されている米津玄師の「Lemon」。多くの人がこの歌を愛し、歌詞の世界観も語り尽くされた感があるが、ここでは新たな耳で聴き直し、紹介してみることにしよう。

それにしても、聞き飽きない歌だ。曲のアレンジは凝っていて、息を吸うブレスの音から米津の歌が始まり、すぐさま“ウェッ”みたいな声のサンプリングが規則的に重なっていく。この音により、耳の照準が少し脇へとズラされ、そのことで歌の悲しみが相対化され、より深く届いてくる。

あの日…、あれから…、あんなに…。いっけん抽象的な言葉が効果的に使われているのも特徴だ。だからこそ、聴いている私達の想いが、いかようにでも歌のなかに映し込まれていく。「Lemon」が聞き飽きない歌であるヒミツは、こんなところにもあるのかもしれない。

梶井と高村と米津、檸檬とレモンとLemon

 歌のタイトルを目にして、多くが思い浮かべたのは国語の教科書で学んだ梶井基次郎の「檸檬」だろう。作者の米津も、例えばこのインタビューなどを読むと、楽曲タイトルが文学的な雰囲気を醸し出すであろうことは頭にあったようだ。ただ、歌を聴く限り、小説との関連は、さほど感じない。もしこれがさだまさしの「檸檬」ならば、明らかに小説へのオマージュなのだが…。

それでもしつこく梶井との関連を探るなら、歌詞の最後の最後、[果実の片方]という表現は、相手の存在をそこに託し、もう片方が自分であるのなら、溢れる心情を果実に託し、想像しているわけであり、梶井の「檸檬」的と言えなくはない。

実はもうひとつ、彼がインタビューで挙げているのが高村光太郎の『智恵子抄』の「レモン哀歌」である。こちらははっきりと、歌との繋がりを感じる。「命」というテーマを扱うことが共通するし、さらにレモンが香る際、果肉もそうだが、果皮(ピール)の匂いも強調されるのが同じである。

米津の歌詞には[苦いレモンの匂い]という表現が出てくる。一方、高村の詩には[あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ]のち、[トパアズいろの香気が立つ]存在として登場する(このあと、果肉に関わる表現も出てくるのだが…)。

「Lemon」のなかの「あなた」と「わたし」

 この歌の特色は、「あなた」へ向けて語られていくワン・コーラス目があり、しかしツー・コーラス目となると、一人称の「わたし」も顔を出すことである。

歌には人それぞれの楽しみ方がある。この歌に関してもそうである。例えば前半、主人公が「あなた」へ歌いかけているのに対して、後半に出てくる「わたし」はその相手であり、相手からの返答も描かれた歌だとするなら、往復書簡のような構成と受け取れないこともない。

ただ、一般的な解釈としては、主人公が「あなた」への想いを語り始め、さらに「わたし」が顔を出してからは、より主人公の強い想いが伝えられ始めていくと解釈するのが妥当だろう。だからこそ終盤へ向け、より聴く者の胸を、鷲づかみにしていくのだ。

もしやMr.Childrenの…。いや、あくまで“もしや”だが

 ご存知の通り、この歌は2018年に放送された『アンナチュラル』の主題歌として書かれたものだ。あのドラマは「命」と向き合う法医学者たちの物語だった。

興味深いのは、当初、この歌のタイトルは「Memento」であったことだ。この言葉の意味は、“形見”とか“想い出の種”などであり、まさに歌の内容そのものだ。

ふと思いだしたのは、Mr.Childrenの「花 -Memento-Mori-」である。“Memento-Mori”とは、ラテン語で“人間はいつか死ぬのだし、日頃からそのことを想っておけよ”みたいな意味で、Mr.Childrenはこの言葉を、作家・写真家の藤原新也の同名著書をヒントとした。

だからどうした、というわけじゃない。米津とMr.Childrenの曲に、目だった共通点があるわけじゃない。もちろん僕も、強引に結びつけはしないけれど、どこかの地下水脈の分流の分流あたりで、もしかしてふたつの歌は、繋がっているのかもしれないな、などと思うと、歌が大好きな人間のひとりとして、ワクワクした気分になれるのだ。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

先日、aikoのライブを観に「さいたまスーパーアリーナ」へ行ってきた。彼女を観るのは久しぶりだったが、花道まぢかのファンとも遠くのスタンドのファンとも同じ距離感を生み出すMCの語り口が、まさに彼女らしいなぁと思った。バンドとの呼吸は、さらに密なものへと進化していた。アップテンポでのシナるようなリズム感といい、場内を“歌心”で満たすバラードといい、aikoというブランドは、ますます輝きを増していたのだった。