第64回 米津玄師「LOSER」
photo_01です。 2016年9月28日発売
 「歌詞」の世界は、この10年で変化した。コトバをサウンドの一部として捉えて書かれたものが増えた。その特色はなんだろう。歌が伝える意味の密度は薄くなりがちだが、その代わり行間を膨らませて、受け手側がイマジネーション豊かに受け取れる構造になっている点だ。それもイイ。過去にこのコラムで取り上げたものにも、そんな作品があったはずだ。

一方で、送り手がコトバの意味を見事に操り、しかもギッシリ、緩衝材が必要なくらいに詰め込んで、それでいて息苦しくはなく、受け手はそれを、ただただ“浴びて”れば幸せだ…、みたいなものにも惹かれる。何しろ季節は秋。濃い味わいのものが欲しくなる季節だ。

そんな時、ぱっと名前が浮かぶのは…、もし若手だとしたら、米津玄師だ。歌ネットでも、彼の作品は人気だそうである。理由は分かる。ぱっと聴いて、意味も伝わり、良さが分かる。でも、さらにコトバの細部へ探訪したくなる、そんな魅力を秘めてるのが彼だからだ。当初のお目当て以外の他の作品にも触れてみれば、彼のレベルの高さも分かってくる。勢いだけで書き散らかしたものなど皆無だと分かる。結果、彼にハマる!

喪失感に留まるのではなく、その先を…。

 彼の名作の中から、「LOSER」を取り上げよう。この歌を聴いたことないヒトも、タイトルから想像出来るだろう。「もしや、喪失感をテーマにしたのでは?」。正解です。ただ、ここからが肝心だ。いま現在、自分の心にその想いが宿っていても、ただ佇んでしまっては、堂々巡りするだけ。なんの解決にもならない。でも彼は、なんとか打開しようとする。その姿に感動するのだ。

[アイムアルーザー]と、まずは自己認識することから始める。そして、ここから粘る。自分達のやり方で、なんとか希望をたぐり寄せたいと願う。[遠吠えだっていい]と言っている。事実、最初は負け惜しみの“遠吠え”に聞こえるかもしれないが、やがてそれが、確かな[僕らの声]へと変わることを信じた“遠吠え”なのだ。

キラー・フレーズを紹介する。[ロスタイムの そのまた奥]という表現だ。深い。このフレーズに触れただけでも、米津の非凡さが分かる。
“ロスタイム”は、サッカーなどで使われる言葉だ。試合中、アナウンサーが「ロスタイムは3分ですねー」と言えば、横の解説者が、「3分あれば、いけますいけます!」と叫ぶ。米津はこれを、人生に置換えている。そう。もし人生にも“ロスタイム”があったとしたら…。

ただ、このままでは凡庸だ。すでに多くの人達が、歌詞にこの単語を使ってるだろう。そこで彼は、敢えて[ロスタイムの そのまた奥]と表現する。諦めない気持ちで粘る。手垢がついちゃってる単語が、こうした工夫により、リアリティを取り戻す。“そのまた奥”と付け加えてなければ、ここまで聴き手に響かなかっただろう。

比喩となりうる“ありのまま”

 実は彼が、テレビのインタビューで「LOSER」に関して解説しているのを観たことがある。発言の細かいところは覚えてないが、この歌は、当時の心境からのものであり、特に[長い前髪で前が見えねえ]は、まさに自分がそんな髪型をしてた、“ありのまま”を描いたものだったと語っていた。

ここで、ソングライターには死ぬまでついてくる質問を持ち出そう。「その歌は、実体験に基づくものなのですか?」。前述の通り、ある部分、YESだろう。ただ、すべてそうかというと、イメージを膨らませた部分も多いハズ。ふたつは混ざり合っている。彼に限らず、殆どの歌がそうだ。

興味深いのは、このヘアスタイルを選んだのは自分だということ。それが今、障害となっている。親や学校が[長い前髪]を押し付けたわけじゃない。主人公の中に渦巻く、ちょっとしたアンビバレンツも伝わる。

作品という閉じられた場所を、風通し良くする工夫

 柱となるテーマからして、書きようによって「LOSER」は、陰々滅々としたものにも、自暴自棄なトーンにも出来ただろう。しかし実際は、疾走感があり、軽やかでもある。曲調がそうだからでもあるが、言葉使いもノリノリな要素を備えていて、大いに効果を発している。
特に最初の滑り出し部分の、[通り]→[独り]→[懲り懲り]や、[僕ら]→[ぼんくら]といった韻はもちろん、[どおり]・[通り]や[踊り]・[踊り出す]の、敢えて重複ぎみにしてアクセントとする部分などは、しょっぱなからアイデア満載で、耳を離さない。

また、自分に閉じ籠もらず、周りの様々なアイテムを、風通し良く歌詞に活かしているのも特筆すべき点である。ずーっと鏡をみつめる主人公につきあうみたいなのでは辛いけど、これなら聴き手の気分も軽くなる。
彼は徳島の出身だそうだけど、[踊る阿呆に 見る阿呆]の郷土愛も泣かせる。こうしたユーモア・センスというのは、やり過ぎちゃうと聴き手の集中力を削ぐ。でも、いい塩梅だ。塩梅どころか、自分達はそれを[端から笑う阿呆]と認めるためにも、阿波踊りからの引用をしている。単なるノリだけじゃなく、イミも伴っている。

固有名詞も出てくる。これも風通しに一役買う。[イアンもカートも]は、夭折したロックのスーパースター達の名前。ただ、ここで重要なのは、むしろ[中指立ててもしょうがない]という表現。彼らを[昔の人]とも言ってるけど、ここで伝えたいことはおそらく、これらのロック・スターを真似ね、反抗のポーズ(=中指立てて)を取っても、いまの自分への救済にはならない、ということだ。

さらにコトバ遊び的なものもある。このあたりは余力というか、まさに米津、恐るべしだ。[今に 灰 左様なら]なんていうのは、聴感上では分からない、歌詞を読む醍醐味を与えてくれている。“灰”という単語を選んでいるのに、ドキッとする。

この作品の歌詞の凄さは、歌を書いた経験のあるヒトほど分かるんじゃないだろうか。歌が伝える意味の密度の、その濃さがハンパない。あと個人的に好きなのは、細かいとこでは[酸っぱい葡萄]という表現。これ、昭和歌謡の歌詞ならば“黄色いサクランボ”ってこと。まだまだ自分は未成熟ってことを知っている。

他にも様々に、語りたいフレーズだらけの歌だけど、そろそろ締めということで、もうひとつ、最後の最後に大切なフレーズを。それは[響きだした音を逃すな]。変化というのは小さな予兆から始まるものだけど、それを見逃すなという、大変ありがたいメッセージなのだ。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新たな才能は、今日も産声をあげます。そんな彼らと巡り会えれば、己の感性も更新され続けるのです。
崎陽軒の「ピラフ弁当」を食べようとして蓋をあけると、いつもは入っているはずのエビが、ひとつも無いではありませんか! でもよく見ると、蓋にすべてひっついていたのでした(あー、ビックリした)。秋になり、コンビニのおでん売り場が美味しそうに見え始めました。セブンイレブンに行ったら、今年から“セット売り”も始まっていて、これからは「〇〇〇セットください」で済むようになります。「ダイコンとぉー、タマゴとぉー、ええとええと、ダイコンやめて、ナンコツつく……、いやタマゴふたつにしてもらってぇー」みたいな客が前にいると、もぉレジ並んでてイライラしますが、これで解消、でしょうかね。食欲の季節なので、つい食べ物の話になってしまいました。