第59回 ウルフルズ「ガッツだぜ!!」
photo_01です。 1995年12月6日発売

 今月はウルフルズの「ガッツだぜ!!」を取り上げる。J-POPのなかでも“励ましソング”のカテゴリーに入る作品だが、ZARDの「負けないで」などとはちょっと異なる内容である。あとで述べるが、まるで自らの“内なる声”に励まされるがごとき歌だからだ。でもその前に、ちょっと個人的な想い出を…。

彼らが大阪から東京にやってきてデビューした頃、よくメンバーに会っていた。特にボーカルのトータス松本君は、若い頃からイカした奴で、ブルースやソウルを感じさせつつもそのフィーリングを押し付けることなく、ナメラカで清々しい歌い方が出来る天才ボーカリストだった。さらにライヴにおける、まるで“サスペンションが効いた車のボディ”のようなバンドの演奏力にも魅了されたのだ。

東京の人間にとって、関西の人達は自己プロデュース能力に長けているように映るけど、そのあたりに関しても例外じゃなかった。特にステージでのウルフルケイスケのオープン・ハートな立ち振る舞いには、それを強く感じたものだった。

もちろん肝心の作品性もバツグンだったわけで、特に僕が好きだったのが、「借金大王」という4枚目のシングル(94年8月)である。かつて越路吹雪さんあたりが歌ってたかのような軽快なテンポかつノスタルジックなメロディに乗せて、今も脳裏にハッキリ焼き付いてる、必殺の韻踏みフレーズが聞こえてきて、「トータスのソングライティングはセンスいなぁー」と、そう思ったものだった。ちなみにその韻踏み、とは…。

[貸した金→あした金→はした金]

…というものだった。“貸した金”を“あした”には返してくれよ、みたいな脚韻くらいなら誰でも思いつくかもしれない。でも、“あした”返して欲しいのが端(はした)金という、この三連続脚韻が実に見事だったわけである。
咄嗟に連想したのは佐野元春の「アンジェリーナ」の“車”が“来る”まで闇に“くるまって”あたり。それ以来の衝撃だったと言っていいだろう(さらに河合夕子/売野雅勇作詞・河合夕子作曲の「上海慕情」における“マドロス”たち(中略)“惑わせる”“まどろみ”の三連続頭韻も思いだす(蛇足を承知で書いておく)。

話を戻す。そんなこんなで彼らは評論家をはじめ、音楽好きからの評価が高かった。しかしなぜか、なかなか一般的な“ブレイク”を果たすことなく、作品を重ねていくことになったのである。そして僕も、なんとなく彼らの取材から遠ざかり、“どうしているのかなぁ…”と思っていた……、そう、そんな矢先の出来事だった。


キング・オブ・ソウルならぬ“殿様ソウル”

 ふとテレビをつけると、画面の中で、ちょんまげ姿のトータスが躍動していたのである。PVの世界観は江戸時代へタイムスリップしてた。つまり彼は絵ヅラ的には“殿様ソウル”とでも表現したい新ジャンルをモノにしたのであって、それはやたらノリノリの曲で、人気もぐんぐん鰻登りになっていく。

その曲が「ガッツだぜ!!」。特徴的なのは、曲調がいわゆる♪ンベンベンベの「ディスコ」のビートだったこと。R&Bに意固地にこだわっていたら、辿り着けない境地だろう。それは彼らが世間と自分達の間に、太いパイプを繋げた瞬間でもあり、デビューから応援していたバンドが認められたことが嬉しくてしょうがなかった。

あとからこの曲の誕生に関する数々のエピソードが語られることになるのだが、この時期、プロデュースに関わっていた伊藤銀次の役割は大きかったことだろう。歌詞の“万が一 金田一”なんていう辺りは、実際に考えたのはトータスであったとしても、「こういうユーモアもアリだ」というスタジオの雰囲気を作ったのは、誰あろう、伊藤銀次だったと思うのだが…。

空耳、という作詞法

 ネット上には、この両者が曲の各パートをどのように繋げ構成していったのかを語り合ってるラジオの同録を文字に起こしたものなども存在するが、より強くこの曲誕生のカギのように流布されているのは、こちらのエピソードだろう。そう。“ガッツだぜ”は“ザッツ・ザ・ウェイ”から来てる…、というものだ。

「ザッツ・ザ・ウェイ」は70年代の中頃、マイアミ・ディスコの名で世界的ヒットを放ったKC&ザ・サンシャイン・バンドの大ヒット曲である。その元の英語詞をトータスが“ガッツだぜ”と空耳したというわけだ。しかし、これが事実だとしてもサビの部分の話であり、曲が成立するまでには他に何工程もあるわけだ。よく鬼の首を取ったかのように“パクリじゃん”的な論旨をばらまく輩がいるけど、音楽が過去から現代、そして未来へと系譜的に繋がって人の心に残っていくことをちょっとでも考えたら、そんな短絡的で乱暴なことは言えないハズだ。

ただこの話、もしそうだとしたら、僕が強く興味を持つのは、「なぜトータスには“ザッツ・ザ・ウェイ”が“ガッツだぜ”に聞こえたのか?」という点だ。“空耳”というのはタモリさんの番組でTシャツを獲得しようとするなら素養や技術が必要だろうが、一般的には、その人のその時の心理状態なども反映され、ふと“そう聞こえてしまった”結果である。

思うに、つまりトータスは、その時、自分の内なる声を“空耳”で聞いたのではないだろうか? なかなか世間一般は自分達のことを認めてくれない。でもここでめげたら、わざわざ東京にやってきた甲斐がない。ここはさらなる奮起をすべきだ。“ガッツだぜ”。そんな時、“聞こえてきた”のはこれだった。己を励ますかのような、力強いこの言葉だったのだろう。思えばこの歌の歌詞中の“行くか もどるか”なども、そのあたりに関連したワードに思える。

歌詞を“聞きながす”という行為について

 歌詞コラムの性格上、「ガッツだぜ!!」の歌詞に、改めて目を通してみた。まず、ナイナイ尽くしの言葉のもって行き方や、さっきも紹介した“万が一 金田一”のようなユーモアがいい。固い響きのあとを柔らかな響きで受けたりといった緩急も全体に効いている。そして例えば“迷宮入り”という言葉は、“金田一”からのさらなる連想だろうけど、もしこれが比喩表現だとすると、また違った意味にも受け取れる。

でも全体的としては、男子の女子に対する性的な欲望をあからさまに表現していたりもするので(これは黒人のブルースの歌詞にもよく見られが)、頭のRPMを落としてつぶさに考察などせずに、“聞きながす”ことこそが適切に思われる。その結果、“ガッツだぜ”という励ましが、太字のデカ字でどどんと頭に残るのが好ましい。じゃあこれはダメな歌詞なのかというと、そうではない。世の中には、“どさくさの美学”というのもあるわけだ。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。
私は職業柄、インタビューをするわけですが、特に相手が初対面の場合、冒頭の10分間は非常に大事です。この人は予め考えてきたことを邪魔されずに喋りたい人なのか、この人は考えながら喋る人で、合いの手を必要とするのか、この人はあまり喋らないようだけどその場で考えてくれているから待つのがいいのか、といったあたりの判断を、その時間帯にするわけです。でも先日初めてお目にかかったアーティストは、とても実績があるのに謙虚だしユーモアもあって、もう最高でした。いま書いたようなインタビュアーとしての心得も忘れ、単に会話を楽しんでいるうちに終了したのでした。もちろん「実のある話」の連続だという確信があったからこそ、細かいことを忘れていたわけですが…。