第72回 竹原ピストル「よー、そこの若いの」
photo_01です。 2015年10月9日発売
 竹原ピストルの歌は、熱唱を超えた圧唱であり、心が揺さぶられるどころではなく、ぶん投げられることさえある。たとえば、話題になった「アメイジング・グレース」に自ら日本語詞をつけたヤツ。あれなんか特に、最後の最後、ぶん投げられる。でも、彼はちゃんと、受け身の仕方も歌のなかで教えてくれている場合が多い。

自分が“若いの”だった頃の実感が活きている

 さて、挨拶代わりに巷で一番ポピュラーだと思われるこの曲から。そう。「よー、そこの若いの」である。

昨今、CMとかで印象的な部分に触れ、その後、歌全体を聴いてガッカリしちゃう作品は多い。サビの部分だけコピーライト的に優れているけど、あとは取って付けたみたいな印象のモノって、けっこう多いのだ。しかし「よー、そこの若いの」は、通して聴いてみて、思わず唸った。充実してる。そして最初に聴いた時は、こういう手があったのか、と、膝を叩いた。

あの印象的な“♪きぃてくれぇえ~”。そう耳を惹きつけておいて、[誰の言うことも聞くなよ]と、まるで相手の体重を利用した柔道の崩しワザのような、そんな言葉の切り返しテクニックを駆使している。
おそらく、竹原ピストル自身、ぽっと出のときはアレコレ周りに言われたのではなかろうか。でもって自分が“若いの”に忠告する立場になったら、それを繰り返すのはやめよう…、みたいな意識が、このフレーズを生んだのかもしれない。

ここに見られる、同じコトバを重複させるようで切り返すテクニックは、この曲以外にも、「月夜をたがやせ」の冒頭[のんでる場合じゃないからこそ のまずにいられねーんだよな]とか、「名も無き花」の[名も無き花 という名の花]などが挙げられる。きっとご本人、こういう感覚を好むのだろう。

さらに「よー、そこの若いの」は、ガーデニング好きが支持しそうな歌でもある。[季節を報せない花なんてないのさ]のところだ。その際、歌詞のなかで一般的に季節を報せるものとしてあげているのは、サクラとヒマワリだ。特にサクラ。季節を報せるものとして、たくさんの歌に登場するのは周知のとおりである。

わざわざ、なぜこんなことを歌詞にしたのか。おそらく竹原は、生きてる実感を毎分毎秒味わってこそ、人生というのは充実すると信じるのだろう。その流れもあり、サクラやヒマワリ以外の花の肩も持つに至ったのだ。日常を注意深く愛しめば、花は次々と、バトンタッチしつつ、年中咲き続けているのである。

「石ころ」と「自画像」と「高千穂」の話

 やけに長いタイトルが見受けられるのも竹原ピストル楽曲の特徴だ。歌詞はこうあるべき、という、「べき」に縛られない自由さが彼の魅力である。

ひとりの詩人を思い出す。吉増剛造である。とはいえ一冊、代表的な彼の詩集を読んだだけなので、一冊分しかデカいことは言えないし、そもそも詩と詞じゃ別モノである。吉増のどの詩のどの部分と、竹原のどの歌のどの部分が共通するんだ、みたいな実証を求められると困る。しかし、ふと想い出したというこの事実は事実として提出したい。

いや…、でもこれでは無責任極まりないのでちょっと書く。それは“ぶち破って、未だ見ぬ場所へ行く”感覚だ。君の想う宇宙は宇宙などではなく、ただの小さな粒であり、ぶち破ればそれが分かるみたいな“心構え”において、共通するものを感じるのだ。

石ころみたいにひとりぼっちで、命の底から駆け抜けるんだ」とか「午前2時 私は今 自画像に描かれた自画像」とか「高千穂峠のこいのぼり~ワルフザケガスギルMIX ~」とか、これらの歌達は、こちらの認識が、歌の進み具合にいちいち追いついていかないところもある。でもだからって、難解というのとも違う。

これこそが、ぶち破れる状態なのだ。そして、「歌が分かる」とか「歌に感動する」とか、そうした意識のさらに外側にまで、我々を連れて行ってくれるのだ。

歌を書く、歌をうたうということの、根源的な意味

 「俺、間違ってねえよな?」をはじめ、歌を作るという行為そのものにも言及してる楽曲もある。こういう題材は、取り扱いに注意が必要だ。歌を作るという行為を題材にすることは、歌にする題材が見つからない、ということと、薄いベニヤ一枚隔てて隣り合わせだからだ。

ゴミ箱から、ブルース」というのは面白い。好きだ。歌詞のなかに、出来てしまった歌を、[果たして…]と、改めて考察している客観的部分がある。でもこの“作者無責任”がいいのである。この場合“ゴミ箱”とは信念も雑念もぐるんぐるんに渦巻く己のアタマのことかもしれない。

歌作りに懸けるファイトこそが眩しい

 歌というものにはファイティング・スピリットが必要だということを、久しぶりに想い出させてくれたのも彼だった。「俺のアディダス~人としての志~」の歌詞をみると、まさにここまで叩き上げてきた人間ならではのリアリティがある。

この作品、世間がよく使う「世の中の歯車に巻き込まれ…」みたいな表現を噛み砕き、自分のスタイルにして突き返してる箇所がある。ソング・ライターとしての体力を感じる瞬間だ。それは、噛み合うのではなく[噛みつき合う]のあたりのことだ。

僕が言いたいファイティング・スピリットの正体とは、声や態度で虚勢を張るポーズのことではなく、どれだけ在り来たりの“表現”に絡め取られず、オリジナリティをぶちかますことができるのか、ということへのファイト、なのだ。もちろん彼には、存分にそれが備わっている。

“なにも起こらず、ただただ相手が側にいる状態を歌う
 ラブ・ソングこそが一番強い”説


 たくさん彼の作品を取り上げたけど、最後にこの歌を。「月光の仮面」だ。前々から思っていたことだが、すったもんだして愛を確かめ合う歌も感動的だけど、“なにも起こらず、ただただ相手が側にいて、その状態だけを歌い、その恋の来し方行く末などわからない、しかし心に滲みる、そんなラブ・ソングこそが一番強い”という説を唱えたいのだ。「月光の仮面」は、まさにその最強さを響かせている。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新たな才能は、今日も産声をあげます。そんな彼らと巡り会えれば、己の感性も更新され続けるのです。
始めた数年前には、作った肉じゃがの写真とかも載せてたのに(笑)、最近はすっかりFBをやらなくなってしまった。とはいえ、ガーデニング関連では、新たに咲いたりすると、気紛れに載せたりはしているのだが…。FBというのは、ふと気付けば、読む人達の顔が、具体的に浮かぶのが理由である。“こんなの載せたら、このヒトは喜ぶだろうけど、あのヒトはどうかな…”。結果、筆も停滞気味となった。これが普段の、もっと大勢の目に触れる仕事の文章だと、まったくそんなことない。ドジな話も平気で書けるんだから不思議である。