第46回 ケツメイシ「さくら」
photo_01です。 2005年2月16日発売
 仕事場の窓の外はいたって長閑な景色である。この原稿を書いてる時点で、私の住む東京は桜が満開だ。記事が公開される頃は、さらに北上していることだろう。でも、たかが花といえば花である。なのにトップ・ニュースで報じられるのは桜の開花ぐらいだ。薔薇がいくら見事に咲き誇ったとしても、トップでは伝えない。なぜだろう。パッと咲きパッと散る姿は、日本人の美意識の根幹たる“もののあはれ”、そしてこの潔さは武士道にも通じるから、とか、色々な人が色々なこと言ってきたわけですが…。 

でも確かにソワソワする。咲くぞ咲くぞのカウントダウンがあって、いざ咲けばお花見中継へと切り替わる。「なのに俺は仕事場に居ていいのか?」と、もう、僕なんかは軽い切迫感にも苛まれるわけだ。でもこれって、大袈裟に言えば生きてることの“実感”へも繋がる気がする。そして世のソング・ライター達も、この“実感”を糧として様々な名曲を書いてきた。春はただでさえドラマチックな季節。その風景を飾るものとして桜は恰好の小道具(いや大道具か…)となる。
森山直太朗と河口恭吾のヒット曲が揃った2003年から翌年あたりにかけて、「桜と名のつく歌はヒットする」というジンクスのもとに、ひとつの“ジャンル”として意識され始めたのが桜ソング、といったことは、今更説明の必要もないだろう。

咲く前の歌・咲いてる歌・そして散り始めの歌

 桜ソングというのはざっくりわけて三つある。そう。開花以前、春を待つ気持ちを歌ったもの。まさに咲き誇っている桜の木の下のドラマを描くもの。そして盛りも過ぎて、桜吹雪へと変わろうとする情景を生かした歌…。開花以前のもので有名なのはaikoの「桜の時」。[春が来るとこの川辺は桜が]綺麗らしいけどまだその季節ではない。咲き誇っているのは森山直太朗の「さくら(独唱)」だが、さすが桜ソング界の帝王のような曲。“舞い落ちる”ところや“舞い上がれ”までもを一曲のなかでケアしてくれている。

ケツメイシの名曲「さくら」はどうだろうか。これは桜が散っていくなかでの主人公の心情を描いたものだ。もともと音楽ジャンルとしてはヒップホップであり、ラップも大きくフィーチャーされている。この、いっけん日本人の“もののあはれ”とはかけ離れていそうなスタイルなのに、ばっちりフォーカスは我々の心情に合ってるあたりが実に新鮮だ。歌詞のなかに[吹き止まない春の風]が登場する。いわば“花散らし”の風である。リズム・トラックのアレンジなども効いて、全体に漂うのは“急いた気分”。でも、どこかに辿り着きたくても主人公の心のディスティネーションは定まらず、宙ぶらりんだ。同じ季節に想い出の場所にやってきて、そこには同じ風が吹いているのに、決定的に違うことがひとつだけあるのだ。そこに居るはずの彼女が居ないこと…。

桜ソングは概ね、バラードかミディアム・バラードである。それはおそらく、いきものがかりの「SAKURA」に[さくら ひらひら 舞い降りて]とあるように、花びらの落下速度を描くにはそれなりの時間が必要だからだ。だったらバラードに限る。“♪さぁ〜くらぁ〜のはぁ〜なびぃ〜ら”と歌われるコブクロの「桜」も同様だ。レミオロメンの「Sakura」はどうか。アップテンポだ。でもそこには[ピンクの絨毯]とある。そう。散ったあとの歌だからアップでも成立したわけだ。

視覚より触覚・嗅覚に訴えるのが斬新

 さてケツメイシの「さくら」。普段、ラップはこのコラムでは扱わないので、ちょっとそのあたりも書かせて欲しい。「さくら」の歌詞をつらつら読んでいくと、体言止めが多くなるパートがある。そこがラップの部分だ。韻をもさまざまに踏まれる。僕が個人的に好きなのは[初めて分かった 俺若かった]のところ。最初の“わかった”はいいとして、続く“わかかった”では、アクセントが置かれる“か”によって“わ”が定位置より前へズラされるように聞こえる。もちろん錯覚だが、ここで勝手に韻に関する造語を考えるなら「滑韻」かな? [“わ”←“か”かった]という書き方もいいかもしれないが、つまり“わ”が滑らされる。

本題に戻ります。なぜケツメイシの「さくら」は並み居る桜ソングのなかでも特別の感動をもたらしてくれるのだろうか? それはおそらく、目の前に桜の木があろうとも、安易に視覚に頼らず、触覚、嗅覚に訴える創りになっているからではないかと思う。さきほどの繰り返しになるが、同じ季節に想い出の場所にやってきて、そこには同じ風が吹いているのに、自分の愛した人はそこには居ない。景色は以前と変わらない。その景色のなかに愛する人の姿を探すことも可能だが、おそらく二人は、仲良く並んで桜を見ていたことだろう。なので景色と彼女の姿はいったん切り離されている。ここで歌詞を再び見てみよう。

この歌の時間帯は[暖かい陽の光]とあるように昼間である。そして南風が強く吹く。[手をすり抜けた花びら]というのは、ひらひら舞うそれに手を差し伸べた結果というより勝手に飛んで来てすり抜けたと解釈するほうが自然だろう。まずこの手の感覚というか、“すり抜けた”という無常観を触覚でもって表している。
次に[風に舞う髪かき分けた]ことにより主人公に感じられた[淡い香り]だけど、これは普通に考えると髪の香りというより桜の香りなのだろう。時間帯が昼間というのもポイントで、気温が高ければ花びらの香り成分の蒸発も促進される。それが主人公の嗅覚を刺激し、戻りたいあの日の記憶の扉を開けたのだった。

そしていよいよクライマックス。この歌を聴いて一番心に刻まれるフレーズは[戻ってくる]という二度繰り返される表現だ。でも“♪もど〜ってくるぅ〜”のは、[忘れた記憶]や[君の声]である。別に桜の花を見たからそうなったのではなく、頬を掠める強めの風や、花びらの香りがそうさせたのだ。そう。触覚・嗅覚だ。
ここのところ、以前のように桜ソング・シーンも活況じゃないようだが、旧態依然たるバラードではなかなか打開できないかもしれない。ケツメイシのこの歌は、いまでも鮮度を落としていない。エレクトロに花びらが舞う桜ソングとかも、来年あたりは聴いてみたい気がする。とはいえやはり、日本人のココロの琴線直撃の正統派のバラードも…なんて、ちょっと最後は贅沢なお願いをソング・ライターの皆様にしつつ、今回は終わります。
ここでワタシの携帯が鳴る。友、からだ。「えーっ!! もう散り始めたの!?」。すみません、原稿はこの辺にして、近所の公園に遅い花見に行ってきます!
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。
でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。
さてお陰様で忙しいのですが、ここ最近はいろいろ新人との出会いもあり、なかでも注目は4月20日に
「衝撃リバイバル」でデビューするハッカドロップス。Superflyのメンバーとしても活動してた
コンポーザー/プロデューサーの多保孝一さんが“歌謡曲の復興”を目指し送り出したボーカリスト
「マイ」の一人ユニット。僕が好きな“歌詞らしい歌詞”にも出会えるプロジェクトです。