第28回 THE BOOM「島唄」
photo_01です。 1993年6月21日発売
 みなさん既にご存知の通り、ロック・バンドTHE BOOMが今年いっぱいで解散することとなった。星の数ほどある日本のバンドのなかでも独自の活動を続け、しかもそれが独りよがりにならずポピュラリティを得たという意味では稀有な存在だっただけに残念である。ただ、バンドというのはメンバー間に共通の目的があって結成されるのだし、それが果たされたなら解散も致し方ない。彼らが発表した公式コメントにも「この4人でやれる事、やるべき事は全てやり尽くしたのではないかという思いが心を支配するようになりました」とあった。

ロックの枠を越えた活動ゆえに生まれた名曲「島唄」

 改めてこのバンドの活動を眺めてみると、時期によって奏でた音楽の傾向が違っている。初期は元気いっぱい弾けていた。でも、程なく日本の音楽のルーツを見直す動きを見せ、やがてロックだけにこだわらず、ブラジルなど世界中の音楽へ興味を広げていった。彼らはTHE BOOMをやり続けながら、二つか三つの別のバンドを経験していったと言っても過言じゃないだろう。
そんな彼らの代表曲といえば、やはり「島唄」。アルゼンチンのシンガーにカバーされ現地でヒットするなど、国境を越え、様々なドラマを生みだした。わたしも一時期、カラオケの十八番だった。様々なドラマを生んだ楽曲で、この一曲のことだけで本が書けるくらいだ。ただ、ドラマといっても好意的なものだけじゃなく、この歌に否定的な意見も当初はあった。沖縄の人間ではない宮沢和史の作ったいっけん“沖縄産”に思える音楽を受け入れない現地の人達もいたわけだ。でも、チャンプルーズで活躍した喜納昌吉は、宮沢を激励したという。喜納は沖縄の伝統を重んじつつも、それに縛られずアメリカのロック・ミュージシャンなどとも共演してきた。そんなコスモポリタンな音楽人ゆえの発言だったろう。 この曲が発表されたのはTHE BOOMの92年のアルバム『思春期』においてである。でも当初は沖縄限定で沖縄の言葉で歌われたもののみシングルとして存在した。彼らはこの歌をあくまでアルバムの中の一曲と捉えたのだ。しかしその後、オリジナルである標準語のヴァージョンがシングルとして全国発売されヒットとなる。
のちに彼らは、この歌を作ったきっかけとして、沖縄を訪れた際、「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れて、その展示が胸に深く刻まれたことがきっかけだったと明かしている。2005年8月22日の朝日新聞の彼のコラムに詳しいようで、興味ある方は探して欲しい。沖縄音階を取り入れて曲を作るだけなら、ミュージシャンにとってさほど難しいことではなかっただろうけど、それではうわべの歌になっていただろう。この歌に魂が込められたのは、宮沢の沖縄でのそんな体験があったからなのだ。

「島唄」を歌った時ののど仏のあたりの快感

 先の戦争で払われた尊い犠牲に対する問題意識から生まれた「島唄」。そうしたバックグラウンドを知ることは大切だ。でも、ひとつのポップ・ソングとして気軽に楽しむこともまた大切だと思う。なによりこの歌は、カラオケで歌うと非常に心地よい。
どこが気持ちよいのかというと、節回しをこなしたとき、のど仏のあたりが実に気持ちいい。沖縄音階の特徴は「ドレミファソラシド」の「レ」と「ラ」が抜けることだが、歌っていると、その音階の隙間に心地よい風が吹いてくる気がする。特に歌っていて感じるのは、サビの部分の“鳥ととも(ぉ)に 海を渡(ぁ)れ”の節回しのところ。ただ、さらにこの歌は凝った作りになっていて、沖縄音階を意識してはいるものの、部分的には敢て「本土で使われている音階に戻した」と宮沢は語っている。こうやって文章を書いているうちに歌いたくなってきた。今晩あたり、行きますか!?
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。
でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。楽曲の力でアリ−
ナまで登り詰めたともいえるback numberのコンサートを横浜アリ−ナで観て、そのあと
先日、ボ−カルの清水依与吏さんにお話を伺いました。数あるソング・ライターのなかで
も僕が心の底から「コイツは筋がいい!」と思う一人。実際に会ってみると、人間的にもと
っても気持ちいいナイスガイでした。